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2005年 12月 10日
![]() 「裏切りの街角」は知っていたし、魅力的な声だとはその頃から感じていたが、甲斐バンドが一番!という程ではなかったことを前節までで述べた。それが変わっていくキッカケは、やはりギターだった。 先に甲斐バンドをコピーしはじめたのはTだ。その頃のTは、アコースティック・ギターでは物足りなくなり、バイトしてエレキ・ギターとアンプを揃えていた。そんなTが、他のグループにサポートを頼まれることになる。その時のレパートリーが、カルメン・マキ&OZ、世良公則&ツイスト、そして甲斐バンドだった。ちょうど「誘惑」がリリースされた頃で、「LADY」の練習に付き合い、伴奏部分を苦手のアルペジオで何度も弾かされ苦労したものだ。その時Tに「今、どのバンドが一番好き?」と訊いたら「甲斐バンド。弾いてて一番楽しい」と答えたことをハッキリと覚えている。「二色の灯」の練習も付きあった。そうして少しづつ、甲斐バンドを聴くようになる。 79年、いきなりカッコいいCMを見てビックリする。出演はなんと甲斐バンド。スプレーでカッコよくロゴを書くのが甲斐よしひろ。「HERO(ヒーローになるとき、それは今)」の登場だ。余計な説明不要だろう。ザ・ベストテン水割り事件をはじめ、一大センセーションを巻き起こす。稚拙な文章力では現せないほど、とにかくカッコいい!Tは「甲斐バンド・ストーリー」のインナーを、自室の壁に飾っていた。 9月を過ぎたある日、Tの自宅で「甲斐バンドNHKホールライブ」のFM音源を聴く。TVでもオン・エアーされたそうだが、受験を控えた時期で、知らなかったのだ。楽曲や歌詞だけでなく、MCにも魅かれた。「非常口の灯りが目に染みるね」「ここでやれるのは紅白歌合戦に出るより素敵なことだ」「覚えたての曲なんで、拍手されると動揺する(笑)」「ロックを書く詩人でありたい」・・・衝撃だった。なんてイカしたバンドなんだろう!俺の音楽は甲斐バンドだ!ハッキリとそう思った。 中でも一番心に残ったMCは、休養中のメンバーの名をステージで紹介したことだ。そう、「見えるだろう?ベース・ギター 長岡和弘!」 REMEMBER335.COMのメイン・ページのキャッチは、このフレーズの伝承であることは、言うまでもない。 #
by soudo335
| 2005-12-10 15:34
| 虜ー私的「甲斐バンド」
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Comments(7)
2005年 12月 08日
![]() 中学3年になり、クラス替えがあった。映画のチラシを交換したりして気の合う仲間であったTと、また同級になる。これは“宿命”だったのだろう。彼とはその後の高校でも同級となり、都合4年連続で同級生となる。 新しい級友に刺激的な男がいた。ビートルズに詳しく、当時高額だった「ビートルズ事典」も持っている。そしてなんとギターを所有しており、「マザー・ネイチャーズ・サン」なんかを弾いてしまうのだ。ビートルズは既に解散していたが、ポールはウイングスで「ワインカラーの少女」、ジョージは「二人はアイ・ラヴ・ユー」等々のヒットを飛ばし、チャートの常連だった。刺激的な男=I に影響され、初めて自分の意志でLPを買った。迷った末の1枚は、ビートルズ「LET IT BE 」だった。 I からはギターも教わる。高額であったろうギターでも、I は惜しみなく使わせてくれた。まずは「バラが咲いた」から。当時のギター譜には、歌謡曲はほとんどなかった。指が痛い。指の皮が厚くなる頃、なんとか自分なりに様になった気がしてくる。アルペジオやスリー・フィンガーなんかも教わったが、全く上達しなかった。恥ずかしながら、今もストロークでしか弾けない。 同様にギターを覚えはじめたTは、親戚からクラッシック・ギターを貰い、それに大胆にもフォーク弦を張って練習しはじめた。”天賦の才”と言うのだろう。メキメキと上達していく。地域性なのか、たまたまなのか。カラオケ全盛の今と違い、人前で歌うのは恥ずかしいことだった。ギターで遅れをとり、やむを得ずその恥ずかしいこと=歌を担当するようになる。自作の詩集を持つHを加え、自然とグループのようになっていった。かぐや姫やアリスのコピー、そして覚えたてのコードでオリジナルも作ったりした。 高校に進み、選択科目や部活を選ぶ時、音楽は考えなかった。生意気にも、音楽は学校で教わるもんじゃないと思っていたのだ。でも、練習場所は放課後の教室だった。「GUTS」とかを見ながらギターを掻き鳴らす。「あれ弾ける?」「これヤって!」というリクエストは、同級生達が支持するアーティストの人気のバロメーターだ。そんな中に、深夜放送で聴いて、いい声で気持ちよさそうに歌っているな、と覚えたばかりの曲、甲斐バンド「吟遊詩人の唄」があった。 #
by soudo335
| 2005-12-08 19:55
| 虜ー私的「甲斐バンド」
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Comments(2)
2005年 12月 06日
![]() 歌謡曲は身近な、日常的なものだった。越路吹雪や美空ひばりが好きな家族は、小さな店を営んでいおり、店頭のラジオからはいつも歌謡曲が流れていた。モノゴコロがついた頃流行っていたのは、ピンキーとキラーズ「恋の季節」とか、黛ジュン「天使の誘惑」とかだった。家族の団欒には、TVの歌番組が不可欠だった。 歌うことは好きだった。小学校4・5年の時、授業中ノートも採らずに鼻歌ばかり歌ってよく怒られていた。そしていつのまにか”恋に恋する”年頃になる。思春期って奴は、様々なオトナ的なことに憧れ、ありふれた家庭的なことを否定するようになる。音楽もそうだ。西城秀樹体験(!)を経て、歌謡曲なんて、という思春期を迎える。詞とビジュアルでは、ガロ「学生街の喫茶店」が最初だったかもしれない。喫茶店って何するところ?ボブ・ディランって誰?変わった詞とメロディーだな?なんで髪伸ばしてんだろう?これがフォーク・・・?洋楽にも触れながら、次第にいわゆるシンガー・ソング・ライターの詞の世界に自分を投影するようになる。 中学に進み、放送委員に選ばれる。同級生の女の子が「すごくいい曲があるんで、昼休みにかけて!」と持ってきたレコードは、吉田拓郎「結婚しようよ」だった。そんな風に、歌謡曲とは違う音楽を語れることが、同級生との会話には不可欠になっていく。そしてそのメディアは、TVではなくラジオだった。家族が寝静まった後の、深夜放送だ! 「たむたむたいむ」「あおい君と佐藤君」を聴いて、直ぐに「セイ!ヤング」へ。ポップス・ベスト10をチェックする。落合恵子に心ときめかせ、谷村新司で笑い転げる。「パック・イン~」の山本コータロウの日もあったし、「オールナイト~」の南こうせつの日もあった。同世代の同じような悩みや、ちょっと年上の世界を垣間見ながら、意味も解らずカッコいい!と思う洋楽や、日常を代弁してくれるような、大人ってこうなんだと思わせるような「歌謡曲でない曲たち」に出逢う。 あまり聴かなかったが、CMの後のジングルに印象的なフレーズが流れる番組があり、そこでザ・タートルズ「HAPPY TOGETHER」なんかを教わった。それが甲斐よしひろのセイ!ヤング、印象的なフレーズの曲は「ダニーボーイに耳をふさいで」だった。 #
by soudo335
| 2005-12-06 14:52
| 虜ー私的「甲斐バンド」
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Comments(3)
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